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土田まさあきの今までの道のり

こんにちは。pfri.net代表・局長の土田まさあきです。

ちょっと書き溜めておきたいことがあったので、これまでのpfri.netが出来上がるまでの道のりを書いてみました。
長い文章なので、お暇な時にご参照いただければと思います。

序章・黎明期

ラジオとの出会い

僕が初めてラジオというものに触れあったのは、小1の夏、父とゲルマニュームラジオを作ったのがきっかけです。
ゲルマニュームラジオって何?と思う方もいらっしゃると思うが、要するに電波とコイルだけの力を借りて電池なしで駆動するラジオのことです。
まだ6歳だったので、大きいコイル巻きにはぶきっちょで、父に手伝ってもらい一緒に作った記憶があります。
これ、自分の今の放送開始の原点です。

それを見かねた父がある日、AIWAのラジカセをプレゼントしてもらいました。これには嬉しくて一日中触っていた記憶があります。

小4の頃、TBSテレビの夕方のニュースで、原宿で大学生が中心となって結成し開局したミニFM放送局「KIDS」の存在を知り、大学生がマイクの前でしゃべってレコードをかけている姿が新鮮だったような記憶があります。

その後、エレキットのFMトランスミッタのキットを購入し、自作してよくラジカセにつないでカセットテープの音源を電波に乗せて遊んでました。それでは物足りない土田少年は、友達を呼び、ラジオの真似事をカセットテープに録音して遊んでました。それを聞いた友達がその録音したテープほ敢えて消して、新しいお遊びを録音し、また友達に聞かせあうといったことをやっていて、そのテープをトランスミッタで放送していました。

まもなくして、当時では画期的だったダブルラジカセのWU4を父に買ってもらい、録音したテープの保存化して、倍速ダビングが出来ることが楽しく、しかもワイドモードというのがあり、ステレオよりかは広がりのある音にしながら遊んでました。

ミニFM放送局の始まり

中学に入学して、仲の良い友達とラジカセを持ち寄り、トランスミッタも自前のを持ち出し、マイクを接続したり、ラジカセ同士AUX男子同士をつなげてミキサー代わりにして放送していました。

中2になってからは、友達が新しいステレオコンポを買ったのを機に、それにトランスミッタをつなげ、たわえもない放送をしたこともあります。当時はギャグ路線で中学生が発する言動て今になっては非常に恥ずかしい内容で、隣のアパートの大学生から苦情の電話がきたこともあります。今では考えられないですが、公開していたんですね。電話番号。

中3の6月、昔からリスナーだった「電話放送局みゅんけ」のスタッフ募集を聞き、応募。条件付きでスタッフとして加入することが出来ました。電話放送局みゅんけとは、1978年に前身の「マイコミ」という日大藝術学部の学生を中心に当時学祭で来ていた、おすぎとピーコの模様を全国の人にも聞いて貰いたいという思いで結成された団体です。1981年に「みゅんけ」という名称になりました。まずは、パーソナリティーとして台本を書いたり自作のラジオドラマを執筆したりと大学生と一緒に勉強させて貰い、後に番組も持つことが出来ました。

夏前、友達の紹介で1つ上のYと知り合うことが出来ました。彼もミニFMに興味があり意気投合しました。真面目な番組は少なかったものの、今後も一緒に活動しようと決めたわけです。

夏頃、入間で高校生が開局したミニFM局の存在を知りました。彼にコンタクトを取ったところ、江古田まで来てくれるということに。本来は僕の方が年下なので、会いに行くのが筋でしたが、遠いところから来てくれました。
それを友達に話したところ、興味のある8人くらい集まりまして、急遽部屋のスペースが広い友達の家に集まり、高校生達はこんな風に番組を作っているのかと感心されられました。

ここで、ネットワーク放送のことを知ります。これは、お互い番組を交換することにより、相乗効果を狙うもので、ミニFMは自宅のそばまでしか電波は飛びませんでしたが、他局でも放送することにより、知名度アップを狙うものです。しばらくは続いてたような気がします。

中3の冬、1月にYと田端駅近くで出会い、彼の同級生3人と合流し、4月に新しい放送局を作ろう!と硬い約束をしました。それが、ナイスステーションです。

結成当時、パーソナリティー一人に集中した番組制作を主体とし、2~3番組を制作してました。

一方、みゅんけでは、4月から副局長に任命され、スタジオの鍵を預かりますが、1988年末に活動困難になり、創始者に権利を移管し、ダイヤルQ2に移行します。その時点でみゅんけは解散しました。

それと同時期、雪谷で当時都内のミニFM局では有名だった「FM POPCORN」にMとYとTと僕で見学に行き、人脈の広さや芸能人との繋がり、現役女子高生の番組収録に立ち会うことが出来、もの凄い勉強されられた時期でもありました。

それから程なく時は流れて行きます。

後、大学受験のため、区切りとして「エンドレスタイム大放送」を制作し、1年間お休みします。

活動期

18歳になってから

この頃、仲間だったMもKも進学が決まり、Yだけ浪人生になってしまいました。そこで、Yの提案通りKに局長を任し、彼の新築の地下室をスタジオとし、活動を再開しました。
以前やっていたパーソナリティー一人進行型とは違い、Kも番組を持ち始め、ドラマ等新しい分野に手を伸ばしていきました。外部からのメンバーの採用も積極的に行い、雑誌の友達募集記事に投稿する等して拡大を広めましたが、絆が固い友達同士、自分のことに集中してしまい、なかなか自分も含めて新しい人にフォローすることが出来ず、やがて加入してきたメンバーも散り散りになり、更にはKの自宅も使えなくなる等、激しい1年間を過ごすことになります。

新しい出会い

収録場所を練馬区内の施設、とりわけ練馬公民館、石神井区民センター、光が丘区民センターに場所を移し、その費用は会費として捻出し、新たなスタートを切ります。

まもなくして、僕がラジオライフに記事を掲載したところ、それを見たUが連絡を取ってきました。今大学入試試験で江古田のホテルに滞在中とのことで、合格したら一緒に会おう!と約束しました。
程なく、春日部のIとも仲良くなり、君津のDとの交流も出来、他局の人と出会うのは久しぶりのことでした。

Uに刺激を受けた僕は、実際の収録現場に足を運び、やはり大学生は人脈も広く、様々な番組展開をしているのだなーと少しうらやましくなりました。これをナイスステーションにも取り入れたいなーと少しジレンマを感じた部分もありましたが、僕なりに活動は続けていたつもりです。Dとのネットワークを開始したのもこの頃で、お互いカセットテープでの交換を行っていました。

Uから提案があり、練馬区内に放送局があり「技術提供してくれる人がいるので会いに行きませんか?」と誘われます。それが、後にお世話になるSさんで、彼の家にお邪魔して色々お話を聞いた際、オーディオ機材のクオリティーや独自に製作したトランスミッタを見て「上には上がいるな」と正直思ったものです。

そこで僕が提案したのが、ナイスステーションとU、IにSさんを加えた番組を共同制作しようではないかというものでした。両者とも賛成をいただき、その年のゴールデンウイークにナイスステーションとは別室でインタビュー型の番組制作を行いました。その名も「おちゃのま」。
借りていた和室が茶道室みたいなので急に名付けた名前ですが、光が丘公園で小学生や主婦、外国人に「ミニFM知ってますか?」等とインタビューをし、その模様をDATに収録。後日Sさんの放送局で放送されました。両者交流を深めることととなり、Uや僕がSさんの生放送に参加する切っ掛けを作っていただきました。

一方、ナイスステーションは、独自番組を制作する中、女性パーソナリティーも数名加入したことにより多少ではありますが、華が出てきた時期でもありました。それなりに自分なりに努力し、活動して来た頃です。
僕はというと、今までのカセット収録型からDATへ切り替えを行った時期でもあり、Sさんの勧めでもあったことから、音質クオリティーも高めることに成功しました。今までの汚いカセットテープのノイズまみれの音から、クリアーなものに生まれ変わり、番組制作の底上げをしました。ただ、Yとかはあまり関心がなく、僕の相方のAS以外は大したことないよってなー顔してましたね。

転機と決断

ある転機が

Sさんの提案により、今まで独自に電波を出してきたナイスステーションでしたが、Sさんの技術力を見越して、番組の送信委託をすることになります。それにより、リスナー層が一気に増えることが期待出来、海賊放送ではあったものの、やはり広範囲な活動は非常に魅力でしたので、技術力に関しては彼に委ねることにしました。

僕にある転機が起きました。その年の10月、Iくんから電話があり「お願いがあります。僕仕事が忙しく活動出来なくなってしまったので、新たに募集した人を引き取っていただけませんか」と相談が、僕は「とりあえず来た分全部送って」と依頼し、数日後簡易小包が届き、50通以上の手紙が入っていたのです。「ほうー彼もなかなかやるなー」と思いきや封書の宛名をみると、殆どが女性で、手紙の中身を見てみるとこれまた驚きで、いわゆる「将来声を使った仕事に就きたい」志望者が多く、イベントコンパニオンや子供ショーのお姉さん、駅ビルデパートのDJブースのアシスタントやナレーションをやってきた方々が大半ではありませんか。これには息を飲んだのと同時に「仮にこの人たちと一緒になれば強い武器になる」と思ったのです。

とりあえず、彼女達に連絡を取ることに。繋がった人優先で、僕の思いを全て話しました。その話に概ね賛同していただいた方が多く、当時、ナイスステーションの活動に限界を感じていた僕は、「この人たちとなら…」と思い始めました。Yを含めナイスステーションのメンバーにはこのことは触れず、独自に彼女達と連絡を取り続けることで様子をみました。全ての人に連絡がついたのは年末でした。

翌年1月15日の成人の日、Sさんの生放送に参加すべく、Sさんの自宅にお昼過ぎに付きました。そのお相手というのが当時Sさんのリスナーさんでテーマを決めて話そう!ということになり、夜10時くらいまで番組進行してました。その後リスナーさんは歩ける近所なのでそのまま解散し、Sさんが「土田さん 家まで送るよ!俺メシ食いたいし」というので乗車。そこで、例の彼女達のことを話してみたら意外な答えが…

「ナイスステーションなんか辞めちまいなよ!彼等とやってても先が見えている!その新しい人を土田さんが呼び寄せて俺と一緒にやろうよ!」

と…
正直驚きました。確かに今の活動では限界でした。モチベーションもあまり感じられなく、彼等とやる意味も薄まってきました。ただの友達同士の結束だけではどうにもならなかったのです。別に仲が悪くなったというのではなく、もう昔のようなパッションが見当たらないのです。

でもSさんなら信用出来ました。技術面でもそうですが、穏やかな性格と気前良さを持ち合わし、いいものはどんどん採用し、力を惜しみません。この人なら一緒に出来ると思ったのです。

脱退決意 解散提案

5月31日、ナイスステーションの定例収録がありました。収録後、高円寺のファミレスで食事をすることを決めていました。そこにSさんとIくんを同席させ、ナイスステーション脱退の意思を全員に伝えます。Sさんと別の道を歩むことも伝えました。また、このままだと活動自体傾きかけてしまい、全体のバランスに耐えられない状態が目に見えてたので、解散を提案しました。

全会一致で承諾をいただき、何事もなく一夜が過ぎました。
1994年5月31日の土曜日の夜のことでした。

第一制作として

新たな活動拠点

この年の6月中旬より、例の募集新メンバーを招集します。

また、同時期にUくんもSさんと手を組み、第2制作として僕達の仲間になってくれました。信頼の於けるメンバーが増えてもう嬉しい限りです。

初回としばらくの間は、Sさんの自宅と練馬公民館の2つの収録場所での活動を行ってきました。その結果、毎週土曜日、オリジナル番組4本、君津のD 1局の計5時間分の番組供給が出来ました。毎週5時間分って今考えたら驚異的ですが、彼女達のパワーや人数、収録体制にゆとりがあったからで、順調に進みました。
半年後には、木曜日も担当することとなり、ロック系番組を主体とした、今までSさんの領域になかった分野の進出を可能にしました。

収録場所として、練馬公民館を主軸とした活動転換して行き、広い場所での収録が可能になり、周りを気にせずに行えたのが一番の収穫でした。ただ、何をやっているのか分からない色眼鏡集団と勘違いされてしまったことがあり、公民館の事務員さんが見回りに来たこともありました。また、公民館という場所柄、子供も多く、勝手にドアノブを引いてしまったケースもあったので、鍵は必至でした。後に説明しますが、これを機に練馬公民館の活動を自粛しざろう得ないことにも繋がります。

翌年には、メンバー半分の入れ替えにより、土曜22時以降の番組に変動があり、木曜日は維持出来ましたが、延べ30人以上のパーソナリティーを廻していたので、しばらくは困ることはありませんてした。しかも、プロフェッショナル集団だったためか、自分の役目をちゃんと理解出来ている方が多かったので、いい意味で手抜きが出来ました。

番組反響としては上々で、いい意味でもっと素人ぽさを出して欲しい等の嬉しい悲鳴もあり、リスナーさんの耳が第一なので、今までとは違うスタイルでの模索という意味では非常に勉強になった部分でもありました。

前記の通り、練馬公民館での収録を自粛するに当たり、しばらく実家で収録を行った時期もありましたが、当時は拠点としてあまり長く続かず、しばらくは途方に暮れる状態となります。

僕個人的な活動としては、生放送時の出演の他に、休日前の平日夜にSさんとUくん、僕とでオンライン(電話)で結び、その会話を生放送で乗せるスタイルも結構やってました。

Uくんは、ヒップポップが好きなので、アメリカ人DJの物まねをしたりして好評でした。何とも言えない欧米人特有の上っ面しい発音や、が鳴り声など似ており、僕は思わず番組中笑ってしまいました。後にUくんとツイッターで再出会った時はDJの物まね話で盛り上がりを見せる等彼らしい一面も見せてくれました。

技術的な話をすると、ミキサーはSoundCraftのFolio、マイクはソニーのコンデンサーマイク、収録機材レコーダーもソニーのDAT、音源出しのCD MDプレイヤーもソニーの物を使用しており、当時から今でいうモバイル的でコンパクトなレコーダー・プレーヤーが多く、持ち運びに非常に便利でした。終段には何もかけず、マイクのみベリンガーのコンプレッサー・リミッターを、会議室等響き対策にはRocktronのHUSHを入れて収録していました。HUSH導入はSさん提案の物で、部屋の響きが気になるとのことで、Sさんから譲り受けたものです。

尚、その技術はpfri.netにも継承されています。

2年目を迎えたあたりから、パーソナリティーの小回りが効かなくなり、供給が出来ない状態に陥り、しばらく休止状態になります。
1996年3月のことです。

インターネットとの出会い

Macでネットサーフィン

当時1996年の5か月くらい前、Windows95が日本でも発売され、インターネットが広まって来ました。趣味であるDTMを片手に何か新しいことを模索してました。

インターネットマガジンを読みつつ、とりあえずリムネットに加入しました。月額1,980円です。勿論ダイアルアップです。モデムとリムネットの開通通知が届きMacの接続設定を終えたらネットデビューです。それと同時にテレホーダイにも加入、3番号全て登録し、22時以降はやりたい放題、ネットサーフィンしてました。そのうち癖になり、毎日寝る前はネットサーフィンな1日を過ごしていたのを覚えています。

その後、インターネットマガジンである記事を目にします。

real audio

てす。

記事の中身は、音声配信のあるべき姿というもので、当時のプログレッシブネットワークス社の取締役さんのインタビューが掲載されていました。「パソコンで音声配信?」半信半疑でした。僕は、DTMでの外部MIDI音源しか音を鳴らしたことがなかった(CDROMのマルチコンテンツを除く)ので、本当に?と思いましたが、早速realPlayerなるものをGET!実際にインストールしてみました。インストール完了後、英語のスピーチで、Welcome to real Player Your Listen to…と本当に音声が流れて来た!と興味津々になり、再びreal Pleyerサイトに行きサンプルデータをクリックしたら、本当にインターネット上で音声コンテンツが聞けた!と思いっきり感動してしまいました。

これ、自分で配信出来ないかなーと考えて調べたら、どうやら音声ファイルはreal audio独自形式でそれを変換するrealEncoderを配布しているページにたどり着きます。これをGET!インストールしたはいいが、それ自体にレコーディング機能はなく(エンコーターだし)音声ファイルを作成するソフトを持っていなかったので、フリーの簡易版波形編集ソフトのSoundEfectなるものを見つけGET、インストールの後、ミキサー、マイク、CDプレーヤーを準備し、終端をMacの音声入力に挿入。簡単な5分番組を制作。音声ファイルに書き出し、realEncoderに読み込ませ変換。
出来た!
ダブルクリックしたら、ちゃんとrealPlyerが起動して音が鳴る!

これだ!

そう、今まで求めていたものがここにあったのです。

しかし、かなり重大な問題が…

Webサイトを公開するにはHTMLの知識が絶対必要、そう当時僕知識ゼロだったんです!

こうなったらHTMLやるぞーと決めましたが、タグの一つも分かりません。で毎号買っていたMacFanのバックナンバー家中読みあさり、簡単にHTMLが作成出来るものはないだろうかと探したら、あったんです!その名を「Visial Cafe」。早速休日にアキバへGO。とりあえず、いつも利用していたラオックスMac館へ。そしたらありました。いくらかは覚えてませんが、3万円でお釣りが来たのは覚えてます。当時20代半ばになりかけの僕にとっては安月給の中捻出したお金。厳しかったのですが「HTML取得のため」「番組制作のため」と思い、買って帰って来て即インストール。立ち上がりました。

ウィジュアルは、ワード見たいなワークスペースで、とりあえず文字を打ち込めばHTMLになるというシロモノ。「土田まさあき」と打ってその文字列にrealaudioのリンク先を指定して保存。とりあえず出来ました。

ようやくリムネットのFTPに繋ぎ、アップロード。指定したプロバイダから配布されたURL(http://なんちゃらかんちゃら/~○○)とアクセス、表示出来た!リンク先をクリックしたら何とダウンロードが始まりしばし数分、そのダウンロードしたファイルが再生された…うーん、僕の想像してたものとは違う!realPlayerのサイト見たいにすぐ聞けなきゃ意味がない。さっきのサンプルデータはダウンロードせずに聞けたぞ!と。

調べました。そしたら、そこで初めてストリーミングという方法を見つけ出します。それをするにはメタファイルというのがいるらしく、それを中間にかましてやると出来るというもの。早速チャレンジ!
まずテキストエディタでメタファイルを作成し、realaudioファイルの絶対パスを書く、そして保存する際にはメタファイルだという認識をブラウザにして欲しいので、.ramとする(realaudioファイルは.ra)。そしたら再度アップロード。今度は大成功!!!

これで、インターネットラジオ局が自分でも出来る!と確信した僕は、以前パーソナリティーだった”かえ”に連絡することにしたのです。

新放送局構想

これで、ネット配信が確実に出来るということ僕一人では何も出来ないので、以前パーソナリティーだった”かえ”に連絡して見ました。かえは、サッパリしで余計な愚痴は言わないタイプの女の子で、相方であった兼(KEN)との相性もバツグンでした!そしたら、一人紹介出来るかもしれないと返答。数日経って、小雪を紹介してもらいました。小雪と連絡を取り桜台まで来てくれるということだったので、待ち合わせを。話をしていると、ハッキリした性格、僕より一つ違いの年齢、喫煙者と来たもんで、即効気に入り「あなただけでは番組は成立しない。相方を紹介して欲しい」と相談したところ、涼(りゃん)を紹介してもらい、とりあえず2人は確保。その他にも由美も紹介してもらい、更には当時立ち上がったばかりのリクルートの情報系媒体「じゃまーる」に掲載することにしました。

以前活動を共にしていた、貴子、聖美も加入しますが、家庭の事情で早期に脱退。

じゃまーるにも掲載され、応募で来た手紙を入れた簡易小包が届き山のような応募が。絞り込み、上記メンバーの他に、ちなみ、ともみ、じゅんこ、アサクラマキ、たかchan、河野深夜、絵美、幸恵、清子が加入。

メンバーは集めたはいいが、活動拠点がない!そこで、小学校の教室開放の話を聞いたのです。そこで恩師に相談。しかし、もう練馬区の学校には勤務しておらず、僕の卒業した小中学校は教室開放対象外ということで練馬区教育委員会に直談判。起案書を提出し、練馬区内での活動を全面アピール。後日担当者から、開進第三小学校と豊玉小学校を紹介してもらうことが出来たのです。

僕と幸恵、清子と共に開進第三小学校の教室開放事務局へ。しかし、教頭先生の許可が下りず理由としては「得体のしれない団体に部屋を貸すことは出来ない」という残酷なもの。どうやら教室開放の学校責任者は教頭先生にあるらしい。つまり事務局がいくら進めても教頭先生の機嫌一つで変わる可能性があるということ。面倒なシステムだ。

仕方がないので、豊玉小学校教室開放事務局へ。後日連絡があり認可が下りた。これで拠点確保が出来た。ほぼ希望の日時が取れることを確認し、部屋は毎度確定出来ないが、比較的空いている和室を利用することが可能になった。たまに視聴覚室になることもあるらしいが、活動の空間さえあればいいので助かりました。

後日認可証を受け取り、正式な「豊玉小学校で生涯活動をする練馬区の団体」のお墨付きをもらったのです。(団体名はまだ正式名称がなかったので「エフエムネリマ」としました)

しかし、まだHTMLな不慣れな僕としてはすぐにネットラジオ局を開局出来ず、サイト自体完璧にする必要があった。そこでメンバーに打診。当面ネットワーク局の番組供給のみの活動とし、とりあえずやってみないかと。了承を得た時点で、1997年6月から本格活動を開始。放送局名をPower Free Redioとする。

程なくして家庭の事情を理由に、幸恵、清子が脱退。

その年の9月、ようやく希望のサイトが出来上がり、プロバイダのサイト容量の関係でリムネットを諦めInterQにサイトを開設。9月10日の夜だった。
と同時に、現段階で制作している番組では、市販のCDが使用されているので、著作権上そのままネット配信するとアウトなので、音声だけを抜き出し、試験放送を開始。

その後、結婚を機にちなみが脱退。由美の友人千尋が加入する。

そこで考えのは、本格的なインターネットラジオ局なのに、ドメインがInterQではおかしい!というもので、独自ドメイン取得に向けて動き出します。ただ、今名乗っている名前では長すぎる。powerfreeradio.com等じゃ覚えてくれなさそうと感じた僕は、PowerのP、FreeのF、RadioのRを取ってPFR(ピーエフアール)として見たが、カタカナ表記する場合語呂が悪いということで、InternetのIを最後につけてPFRIつまり”ピフリ”と読まし、属性を.netとして、PFRI.NETつまり”ピフリネット”がいいのではないかと思い、早速インターニックでドメイン検索をかける。「No Much」の表示が。

よし!これで行こう!ということで、新たな放送局名をPFRI.NET”ピフリネット”とし、ドメイン取得することにしました。

pfri.net #1

1997年も終わりに近づいて来ているこの季節。

当時のドメイン取得は、レンタルサーバーと抱き合わせで行うのが通例でした。確かに今後運用するにあたって安定性とディスク容量が豊富なレンタルサーバがいいに決まってます。レンタルサーバーの選定に入ります。結果サポートに期待出来そうなコムコムクラブに決定した。月額3,500円でディスク容量350MB(GBじゃないですよ!MBです!)のフランを契約。当時クレカを使用出来ることが知らなくて口座振替を選択。

ところが、.netドメイン取得に2年間で100ドルもした!当時はcomやnet、org等は日本のレジストラが存在しておらず、全てアメリカ直。費用はかかったものの代行してもらえ、しぶしぶ100ドル収めた。

ドメイン代行もサーバー初期設定代行も全て揃ったのが翌年お正月。後は開通を待つのみだったが、ようやく1月24日に通知が。これで、新ドメイン プラス サーバーでの運用が出来ることに。当日の夜データを乗せ換えて、Power Free Radioのロゴをpfri.netに差し替えて、http://www.pfri.net/ でアクセスしてみたところ、表示されている!試験放送も問題ない!

2月の始め、全メンバーを豊玉小学校に招集。放送局名をpfri.netに変更の通達をする。更に今までの番組をインターネット配信専門にするため改変を求めたが、小雪、涼、由美、じゅんこが猛反発。

理由として
1.今まで60分で制作していたのに半分になってしまうのは番組構成上不利
2.著作物CDがかけられない
3.収録体制の不満
4.自分達にインターネット環境がない、パソコンを持ってない
という意見があった。

一方賛成派の人は独自の意見を持ち
アサクラマキ:私新しいMacを買うのに一生懸命仕事しているの。インターネット放送大賛成!、と前向き発言
たかchan:マキちゃんがいいって言っていることだしねー まぁ時代の流れということで、とオツボネ発言
ともみ:番組がなくなるわけじゃないんだしちょっと変えればいいだけなのにー、と発言
河野深夜:(彼女らしい独特の雰囲気で)番組ってなまものじゃないですか?新鮮なうちにネット配信で、と前向き
絵美:私インターネットやってまーす 、と現在進行形

特にアサクラは、賛成派に人一倍手を挙げていたので、その信念が伺えます。

反対派は、その場を立ち去り、残った賛成派と一緒に今後の話をしました。出た結論は、2月後半にインターネット専用番組の定例収録をし、3月9日の月曜日に開局させるというもの。これが決定し、ようやく「インターネットラジオ局 pfri.net -ピフリネット-」が開局するのです!

1998年3月9日、番組「fun! fun! fun!」「ともみの高木淳な夜」「東京千夜一夜すとーりーず」の3本をレギュラーとして配信。その後の活動はもうお分かりですねーaboutのページの「これまでの生い立ち」を参考にして下さい。

長々とお付き合いいただきありがとうございます。

以上、僕 土田まさあきの今までの道のりでした!

2022年4月15日記